東京地方裁判所 昭和33年(レ)469号 判決 1959年6月29日
東京都品川区南品川一丁目二三八番地
控訴人 池田為一
右訴訟代理人弁護士 双川喜文
右同所
被控訴人(榎本新三郎承継人) 榎本ヨリ
同 榎本英一
同 榎本治郎
同 宮崎富雄
右四名訴訟代理人弁護士 佐野潔
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴人は、原判決を取消す、被控訴人等は控訴人に対して東京都品川区南品川一丁目二三八番地の四所在の家屋番号同町二二〇番木造瓦葺二階建店舗二戸一棟建坪一二坪五合外二階一〇坪のうち北側の一戸(建坪六坪二合五勺、二階五坪)を明渡し、且つ、昭和二八年六月一日から明渡済みまで一月金一、〇一〇円の割合による金銭を支払うこと、訴訟費用は第一、二審とも被控訴人等の負担とするとの判決及び仮執行の宣言を求め、被控訴人等は主文同旨の判決を求めた。
当事者双方の主張とその証拠関係は、左に記載するものを除く外、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。なお、原判決の事実摘示には誤記と認められるものが数個所あるが、いづれも本案の判断に影響がなく前後の関係から文意が通じるので、いちいちこれを摘記しない。
控訴人は、当審において請求原因を追加し、本件家屋は控訴人において自ら使用する必要があるので、控訴人は被控訴人等の被承継人榎本新三郎に対して昭和二八年一二月二日到達の書面で解約の申入をしたので、本件賃貸借はその後六月の経過によつて終了したものである。したがつて、控訴人は被控訴人等に対して右の終了を原因として家屋の明渡と延滞賃料及び損害金の支払を求めると述べた。控訴人主張の自己使用の必要性その他解約申入の正当事由の詳細は、別紙第一準備書面記載のとおりである。
なお、控訴人は、控訴人が坪井米太郎から本件家屋の所有権を取得して本件賃貸借を承継した日時は昭和二六年一一月であると原審における主張を訂正し、仮りに被控訴人等主張のように昭和二八年一二月二日到達の書面によつては無断改造を理由として契約解除の意思表示をした事実を認めることができないとすれば、控訴人は本訴において改めてこれを理由として契約解除の意思表示をすると述べ、被控訴人等が昭和二八年六月分以後の賃料をその主張のように供託している事実はこれを認めた。
被控訴人等は次のように答弁した。
控訴人から解約の申入のあつたことは認めるが、正当事由の存在は否認する。仮りに控訴人に本件家屋を使用する必要があるとしても、それは主としてその営業の発展をはかるため本件家屋を使用する必要があるというに帰着するが、被控訴人側においては全くこれと事情を異にし、本件家屋から立退くことはその生活の根本的な破壊を意味する、
すなわち、被承継人新三郎夫婦は老齢病弱で、二男治郎が本件家屋で四分の一馬力の動力印刷機をつかつてささやかな印刷業を営み、長年住みついた縁故をたどつて知人からの注文をうけ、その収益で老父母と妻子三人を辛うじて養つていたのである。したがつて、治郎が本件家屋で印刷業を営むことは一家の生活にとつて不可欠の要件なのであつて、ここから立退けば生活の根底がくづれる。のみならず、控訴人は隣家の一戸を宮川某に賃貸しているが、同人と話をつければ、本件家屋の明渡を求めなくとも極めて合理的に、店舗を拡張できる筈であるし、住居が手狭であるといいながら本件家屋に隣り合つている一戸(本件家屋と同一構造のものである)が一審当時空家になつていたのに自からこれを使用せずに某会社の事務所に使用させていたこともある位であるから、控訴人には解約申入の正当事由があるということはできないと述べ、なお、控訴人がその主張の日に本件賃貸借を承継した事実はこれを認めた。
立証として、控訴人は甲第四、第五号証を提出し、証人鈴木正、池田莞子及び控訴人池田為一の尋問を求め、被控訴人等は証人宮脇一郎、宮川寅次郎及び榎本治郎の尋問を求め、甲第四、第五号証の成立は知らないと述べた。
なお、被控訴人榎本新三郎が昭和三四年三月八日死亡し、被控訴人等が相談人としてその地位を承継したことは当事者間に争がない。
理由
控訴人が昭和二六年一一月坪井米太郎から本件家屋の所有権を取得して、同人と被控訴人等の先代榎本新三郎との間の本件家屋に関する賃貸借を承継したこと、右賃貸借が期限の定めのないものであつて、昭和二七年一二月一日からその賃料が一月一、〇一〇円に改めらそたことは当事者間に争がない。
(無断改造を理由とする契約解除の当否等について)
被控訴人等の先代新三郎が本件家屋の表側の西寄りにある約一間の板壁の一部を取りこわして洋式のドアーを取りつけて出入口を作り、板壁に接する二畳の間の畳を取り除き、さらに床板を剥がし、根太を取り去つて床面を従来より切り下げて板敷の床に改造し、ここに二男の治郎が印刷機を据えつけて印刷業を営んでいたことは当事者間に争がない。そして、原審における検証の結果によれば、洋式のドアーを取りつけた部分は高さが一七三糎、巾が八〇糎で床面は約三〇糎切り下げられていることが認められる。
控訴人は右の改造は昭和二八年六月上旬頃控訴人に無断でなされたものであるといい、被控訴人等はこの改造は同年三月一五日になされたものであつて控訴人の承諾を得ているものであるという。このように、改造の時期及び承諾の有無については当事者間に争があるが、この点はしばらく措いて、
(1)当審証人榎本治郎の証言及び原審における証人榎本マツエ及び被告榎本新三郎本人の供述を綜合すれば、被控訴人等の先代亡榎本新三郎は大正一三年頃訴外坪井かまから本件家屋を賃借りして引き続きここに居住し相川材木店に勤めていたが、昭和二七年春に老齢と高血圧のために相川材木店を辞し、老妻と共に駄菓子屋をはじめたが一月六千円位の収益しかなかつた。そこで、新三郎の二男治郎が昭和二七年一二月から本件家屋の店先で手刷機械を使つて印刷屋をはじめたが、手刷機械では商売にならず一月の売上が二万円位しかなく、父母と妻子三人の生活を支えることができなかつたので、手刷機械の代りに動力機械を据付けて本格的に印刷業をはじめるために二畳の間を前記のように改造したものであつて、その後妻の実家からの借財などで四分の一馬力の印刷機械を買入れ一月約二万五千円位の収益を挙げ、これによつて一家の生計が維持されている事実を認めることができ、また、
(2) 当審証人池田莞子、原審証人小泉八郎、同榎本治郎の各証言並びに成立に争のない乙第一号証の一によれば、控訴人は本件家屋の所有権を取得して新三郎との間の賃貸借を承継した後もその旨を通知せず、訴外小泉八郎が従前どおり坪井の代理人として本件家屋を差配し新三郎から賃料を受取つていたため、新三郎等は控訴人が賃貸人であることに気付かず、従来どうり坪井が賃貸人で小泉がその差配人であると思つていたことが認められ、そして、
(3)原審における証人榎本マツエ、榎本治郎及び被告榎本新三郎本人の供述並びに原審及び当審における証人池田莞子の証言によれば、新三郎は、改造をする際改造についての承諾を求めるためその妻をして早朝二回にわたつて差配人の小泉八郎方を訪づねさせたが、小泉が就寝中であつたためそのまま工事に着手した。本件家屋と控訴人の住家は一軒おいて隣り合つており、控訴人の妻の池田莞子は坪井の娘にあたる関係にあつたので、工事の途中で莞子に対して改造のことを話して坪井の母の承諾を取りつけてくれるように頼んだ。これに対して莞子は、自分にはよくわからないが、母に依頼の趣旨を伝える旨を答え、工事そのものについては格別異議を述べなかつた。控訴人も工事の途中で莞子から改造のことを聞いたが、これ亦工事についてはなんらの異議を述べなかつたことが認められる。証人榎本マツエ、榎本治郎及び被告本人の前記供述のうち莞子が改造工事を承諾した旨の供述部分はにわかに措信できない。
(4)そして、その後の経過をみると、原審における証人岩崎重八、小泉八郎及び被告榎本新三郎本人の供述及び前記乙第一号証の一並びに当審における証人池田莞子及び控訴人本人の供述を綜合すると、控訴人は差配人の小泉八郎に対して新三郎からの賃料の受領を差止めたので、小泉は昭和二八年七月二日に受領した同年六月分の賃料をその後になつて新三郎に返還し、且つ、その後の賃料の受領を拒絶したので、岩崎重八が両者間の紛争の調停に乗り出したが、控訴人は岩崎に対して新三郎が無断改造をしたことなどには少しも言及せず、家がせまいから明渡してもらいたいのであるといつて明渡の事由を説明していたことが認められ、また、同年秋頃控訴人が調停の申立をした際も無断改造の点は格別これを問題にせずに自己使用の必要があることを理由として明渡を求めていたことが認められ、他に以上の認定を左右するに足る資料はない。
右に判断したところからすれば、本件改造は新三郎が一家の生計を支える必要に迫られて已むなく行つたものであつて、その範囲及び程度も比較的小規模なものでとりたてて重大視するほどのものではなく、しかも、その改造工事を行うについては、きわめて不十分なものであるとはいえ、一応賃借人としてとるべき手続の一班をふんでいることが認められ、また、控訴人の側においてもさして本件改造を重大視していなかつた事跡が窺われる。これらの点からみると、控訴人の主観的な心情は如何ようにもあれ、社会的な標準からすれば、本件改造は控訴人が賃貸人として正さに認容して然るべき範囲の改造工事であつて、いわゆる賃貸借の基本をなす信頼関係を破壊し、賃貸借の継続を不可能ならしめる程度のものではないとみるのが相当である。
控訴人は、右の点について、家屋の賃貸借は個人的信頼関係を中心とする継続的な法律関係であるから、無断改造はこれを許すべきものではなく、控訴人は新三郎に対して相当期間を定めて原状の回復を求めたが同人がこれに応じなかつたので本件賃貸借を解除したものであるから、控訴人のなした解除は有効であると主張する。思うに、家屋の賃貸借が当事者の信頼関係を基本とするものであることは異論のないところであるが、ここに、いわゆる信頼関係というのは当事者間における主観的な信頼関係、いいかえれば、当事者相互間における個人的な主観的信頼感の共存関係をいうのではなく、相手方が賃貸人又は賃借人として信義に従い誠実に行動すべきことに対する相互の期待を内容とする一定の関係をいうのであつて、ひつきよう、それは賃貸借関係を支配する信義誠実の原則の具体的表現であり、当事者相互の関係がその根本において信義則によつて規律せらるべきものであることを意味するものに外ならない。このことは個人的には互に抜き難いほどに激しい不信の念をいだいている当事者相互の間にも、当事者の一方が相手方に対して家屋の使用を許し、相手方がこれに対して借賃を支払うことを約した場合にはそこに家屋の賃貸借が成立するし、賃貸人が目的の使用を妨げず、賃借人が借賃の支払を怠らない限りその賃貸借は支障なく継続してゆくことを考えれば容易に首肯できることである。したがつて、賃貸借における信頼関係の存否は当事者の主観的な信頼感情の有無によつてこれを定めるべきものではなく、賃貸借の社会的機能を十分に考慮し、具体的事情に則して社会的見地から社会的標準に従つて、いいかえれば、社会通念と信義則によつてこれを客観的なものとして具体的に意味づけてゆくことが必要である。いま、改造工事についていえば、賃借人が家屋の一部を改造しようとする場合には改造の必要なる理由を説明して事前に賃貸人の承諾を求めるべきものであり、賃貸人はそれが社会通念上相当なものであつて是認すべきものである場合にはこれに承諾を与えるべきものである。このように双方が信義則に従つて行動することが即ち賃貸借における信頼関係の内容をなすのであつて、これに反する行為を敢てすることは、それがいづれの側の行為であるにせよ、いづれも信頼関係に背くものといわなければならない。こうした見地から本件をみると、新三郎が控訴人のいうように無断で本件改造工事をしたものであるとすれば、それは賃借人としての保管義務に違反し信頼関係に背く行為を敢てしたものというの外なく、吾人の常識からすれば、控訴人の新三郎に対する主観的な信頼感情は、これによつて、ほとんど地を払つて消失し去つたものといつても過言ではないだろう。しかしながら、主観的な信頼感情の消失は直ちにこれを信頼関係そのものの消滅ないしは破壊と同視すべきものではないし、本件改造が前記のように生活上のさし迫つた必要からやむを得ずになされた比較的小規模のものであつて、もし新三郎が控訴人に対して事前にその承諾を求めていたとすれば控訴人としてはこれに承諾を与えることが正さに賃貸人として相手方の信頼に応える所以であつたと認められるから、新三郎の保管義務違反ないしは信頼関係違反のみをことさらに問題として取り上げ、これを理由に解除権の行使を主張することは、自からも亦信義則によつて律せられるべき客観的秩序としての信頼関係を破ぶることになるし、しかもその結果は、新三郎一家にとつてはその生計の根本が破壊され、一家の生活が直接おびやかされることになるのに対し控訴人の側においれは後記のように家屋使用の緊急性があるとも思われない実状にあるのであるから、かかる解除権の行使は信義則に反し、権利の濫用として許されないものと解するのが相当である。このように考えるので、控訴人の前記の主張はこれを採用しない。
控訴人は、また、新三郎は本件家屋の一部を無断で印刷工場に改造して住宅及び店舗として使用すべき本件家屋の用法を擅に変更したと主張するが、新三郎の二男治郎が昭和二七年一二月から本件家屋の店先で手刷機械を使用して印刷業を営んでいたことは前段認定のとおりである。そして、当審証人池田莞子の証言によれば、控訴人はこの事実を知りながらこれに対して少しも異議を述べずにいたことが認められるから、治郎が本件家屋において印刷業を営むことは控訴人においても暗黙のうちにこれを承認していたものというべく、したがつて、手刷機械を動力機械に代えたからといつて、これを用法違反ということはできない。控訴人の主張する「印刷工場」なるものは前記改造に係る二畳の間をいうものであるが、原審における検証の結果によれば、同所には部屋の中央に印刷機械が一台据えつけてあるだけで、しかも一人でこれを操作する余地しかない構造になつているのであるから、印刷工場などというほど大げさなものでなく、手刷機械を動力機械に代えた程度のものにすぎないとみるのが相当である。したがつて、控訴人の右主張も採用できない。
(正当事由による解約申入の当否について)
控訴人が新三郎に対して昭和二八年一二月二日到達の書面をもつて正当事由による解約の申入をしたことは当事者間に争がない。そして当審における証人鈴木正、池田莞子の各証言及び控訴人の本人の陳述並びに右陳述によつてその成立を認めることのできる甲第四、第五証によれば、控訴人は十数人の使用人を使つて牛乳販売業を営んでいる者であるが、住居も店舗も手狭であること、ことに店舗が手狭なところから空びんや空箱などの置場として道路を使用しているため警察から撤去通知をうけたり、保健所からも店舗を広くするようにという警告をうけたりしている事実が認められるから、控訴人の側に住居や店舗を拡げる必要のあることはこれを認めることができるが、前段(1)で判示した被控訴人側のさしせまつた事情と対比すると、この程度の必要性をもつてしては解約の申入につき正当の事由があるものとすることはできない。ことに、当審における証人宮脇一郎及び宮川富次郎の証言によれば、治郎の印刷業の顧客先は近隣の知合関係の人々が多く、他所へ移れば容易ならざる打撃をうけるべきことが予想されるのであるから、なお更らもつて然りといわざるを得ない。そして、このことは前段認定のいわゆる無断改造のいきさつを斟酌しても、その結論を左右するに足りないものである。
右のとおり、控訴人の請求はすべて理由なく、これを排斥した原判決は相当であつて、本件控訴はその理由がない。よつて、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 石井良三 裁判官 立岡安正 裁判官 渡辺均)